茨城県かすみがうら市立志筑小学校
  
 
COUNTER2114643

携帯からのアクセス

携帯電話からもアクセスできます。
携帯からのアクセス
 

ログイン

オンライン状況

オンラインユーザー6人
トップ > 志筑自慢 > 志筑を探る(史跡・偉人)
歴史探訪
12
2012/08/31

鈴木三樹三郎

| by:志筑小
◇伊東甲子太郎・鈴木三樹三郎の母の実家  ここから約50mほど先に生家があったとされる。母の実家
鈴木三樹三郎……天保8年(1837年),常陸国志筑藩郷目付鈴木専右衛門忠明の次男として志筑に生まれました。幼名を「多門」(多聞という説もあり)と言います。兄は新選組参謀・御陵衛士であった伊東甲子太郎(鈴木大蔵)です。父忠明の閉門・蟄居後,家名断絶,志筑藩追放となります。多門は父の祖母の実家に身を寄せますが,罪が許されても領内に戻ることはできなかったそうです。一家は高浜村東大橋(現・石岡市)に移り,廃寺となっていた三井寺で漢学塾『俊塾』を開きます。父の人望や評判を聞きつけ沢山の塾生が集まり暮し向きは良かったとのことです。嘉永5年(1852年)2月,父が亡くなります。兄大蔵(伊東甲子太郎)はその時すでに江戸で伊東道場の門弟となっていたために弟の多門が塾を継ぐことになりました。しかし,まだ16歳の多門は勉強は早めに終わらせて,「男は武芸に励むべきだ」と「楠多門丸」などと書いた旗を持って毎日子弟たちと戦争ごっこなどをしていたといいます。それを知った親たちが不満に思い,子弟たちを退塾させるようになり,塾は次第にさびれたそうです。その後,志筑藩寺内家の養子に入り,山林取締役兼御朱印番に任命されますが,酒量が増え仕事をさぼるようになったことから,寺内家からも離縁され,お役ご免となります。その後,尊皇攘夷運動に奔走すべく脱藩し,江戸の兄の所に身を寄せます。しかし,安政7年(1860年)3月3日「桜田門外の変」があり,脱藩浪人に対する取り調べが厳しくなります。そこで,常陸国多賀郡にしばらく隠棲をします。
 元治元年(1864年),兄や伊東道場の門弟ともに新選組に入隊し,名を三木三郎と改名します。新選組では九番隊長として行動します。その後,兄と同じく新選組を離れ御陵衛士となります。油小路事件で兄を暗殺されたことに激怒し,新選組局長近藤勇を襲撃するのですが失敗してしまいます。
 その後,薩摩・長州藩を中心とする赤報隊二番隊隊長となります。しかし,赤報隊は偽官軍の罪で疑われ,三樹三郎は投獄されてしまいます。しかし,西郷隆盛の助けで罪を免れます。その後,新政府軍の徴兵七番隊に加わり,軍務局軍曹を拝命して江戸へ下向し,戊辰戦争では北越や会津における戦線を戦います。明治維新後,鈴木三樹三郎と名前を改めます。警官となり山形県酒田警察署長等を務め,余生は大正8年まで石岡市で暮らしたそうです。

22:00 | 偉人(歴史上の人物)
2012/08/30

伊東甲子太郎

| by:志筑小
◇伊東甲子太郎の生家付近   建物はなく,雑木で覆われている状態である。
生家伊東甲子太郎……天保6年(1835年),常陸国志筑本堂家(旗本)郷目付 鈴木専右衛門忠明の長男として志筑に生まれました。幼名は祐之,初名は大蔵(大藏)と称していました。忠明が家老との諍(いさか)いによって閉門・蟄居となります。その後,大蔵が家督を相続したものの,後に父忠明の借財が明らかになったことから家名断絶となり,一家は領外へ追放されることとなります。しばらく大蔵は母方の里に身を寄せていましたが,志を立てて水戸で学問と剣を修行します。その後,江戸にある北辰一刀流の伊東道場で剣を学び,その後伊東家を継ぎます。やがて藤堂平助の誘いで共に京に上り,元治元年(1864年)10月に新選組に入隊します。その時に入隊した年の干支にちなんで,伊東甲子太郎と名を改めます。新選組では参謀となりますが,近藤勇・土方歳三の佐幕(幕権強化・回復)の考えと亀裂が入り,新選組を離れ,御陵衛士(孝明天皇の陵[お墓]を守るための組織)として活動します。
 伊東は,坂本龍馬が暗殺される前に,危険が迫っていることを龍馬に忠告した人物でもあります。この忠告を龍馬が素直に受けていたら,その後の歴史は変わっていたかもしれません。最後は龍馬が暗殺された3日後の慶応3年(1867年)11月18日(1867年12月13日)に,新選組の陰謀で暗殺されてしまいます。この陰謀とは,近藤勇に呼ばれ酒の接待を受けます。酔わされた伊東は,帰途にあった油小路の本光寺門前にて新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺された(油小路事件)ものです。なぜ酔わされたのか。それは伊東甲子太郎が北辰一刀流の道場主,つまり一刀流の使い手なのを警戒した新選組が,酒に酔わせ動きを鈍らせようとしたと言われています。また,新選組は甲子太郎の遺体を放置し,御陵衛士をおびき寄せようとしたといわれています。
 以前,NHK大河ドラマ『新選組』で,俳優の谷原章介さんが演じていた役が『伊東甲子太郎』でした。また,11月18日の命日には多くの女性がお墓参りに,京都市東山区戒光寺を訪れるそうです。
・・・
・・・

22:00 | 偉人(歴史上の人物)
2012/08/29

中志筑の街並み

| by:志筑小
茅葺き屋根の家屋百日紅が見られる通り割元名主のお屋敷
中志筑の通りには,昔ながらの風景が見られます。茅葺き屋根のある家屋,大きな門を構える家屋,夏には百日紅の花が鮮やかに咲かせている景色を見ることができます。 画像に写る押しボタン式信号機を北に入ると,長興寺,志筑城址,師筑の田井に向かうことができます。

※次回は「伊東甲子太郎」を紹介します。

22:00
2012/08/28

志筑城趾

| by:志筑小

志筑城・陣屋跡
 場所:かすみがうら市中志筑字森

 西側より志筑城趾を望む 南側門 
 石碑 案内板 
 全景

 中志筑の宿通り,手押しボタン式信号機の小さなT字路を北に入り,500mほど進むと「志筑城址(志筑陣屋)」があります。平成23年(2011年)8月まで,志筑小学校がありました。8月末に校舎が移転し,現在は大きな楠(くすのき)と石碑,周囲の土塁などを残すのみで建物などは撤去されています。

【案内板より】
 志筑城は,鎌倉時代源頼朝の家臣下河辺政義(後益戸氏)が,養和元年(1181年)頼朝に叛いた浮島の信太義広を討ち,その功により茨城南部の地頭となり,この地に城を築いたのに始まる。
 この城跡は,三方が深田に囲まれ,南側に自然の堀割を擁した天然の要害で,土塁など鎌倉時代の築城方式を今に残している。
 南北朝時代,五代の顕助,国行父子は小田城主治久と共に南朝方に属し,北朝方の石岡の大掾高幹としばしば闘いを闘いを挑み,半年間も戦闘を続けたが興国2年(1341年)11月小田落城の報を聞き,翌日6代国行は城を捨てて一族の小山氏のもとへ走り,その後も南朝方のために忠勤に励んだという。
 その後廃城となっていたが,慶長7年(1603年)佐竹氏の国替えに伴い,出羽国(秋田県千畑町)より当地へ移封となった本堂茂親が志筑藩の領主となって,正保2年(1645年)ここに陣屋を構えて廃藩置県まで,本堂氏12代の居城となっていた。

※次回は「中志筑の街並み」を紹介します。


22:00 | 史跡
2012/08/27

師付の田井

| by:志筑小

師付の田井

 全景
  

 場所:かすみがうら市中志筑。
 志筑藩本堂氏の菩提寺・長興寺の参道横を通り抜けた先に開ける田園風景の中に,「師付の田井」の碑が建っています。
 古くこの地は「信筑」「雫」「師付」などと呼ばれていたそうです。「しづく」という表記が初めて歴史に名を残しているのは「常陸国風土記」です。その名を広めてくれたのは719年(養老3年),常陸国の役人として中央から派遣された高橋虫麻呂と言われています。
 草枕 旅の憂を慰もる事もあらむと筑波嶺に
 登りてみれば尾花ちる
 師付の田井に雁がねも寒く来鳴きぬ
 新治の鳥羽の淡海も秋風に白波立ちぬ
 筑波嶺のよけくを見れば長き日に
 思ひ積み来し 憂は息みぬ
とよみ,秋の筑波山からススキの穂が揺れる志筑の田園風景を眺め,長い間思い悩んでいたことから解放された心情をつづった歌は,万葉集に編まれている。
 碑の裏側には豊富な水がわき,「水田の中の井戸」という意の「田井」がよまれたことから,ここが古くから水田地帯だったことが推察されます。水が貴重だった時代から生活を支えてきたわき水に感謝し,1972年(昭和48)に碑が建立されました。
 江戸時代には万葉集にうたわれていたこともあり,「志筑」はあまたの歌人あこがれの地になったそうです。歌会が開かれたほか,1715年(正徳5)には水戸藩の旅日記『水戸街道道中記』に「此 雫も常陸の名所也」と記述され,その名は全国に知れ渡ったそうです。


※次回は志筑城址です。


22:00 | 史跡
2012/08/26

長興寺

| by:志筑小
五百羅漢の長興寺
 場所:かすみがうら市中志筑
 志筑の通りから旧志筑小学校(志筑陣屋跡)に向かう途中,左手に山門と本堂が見えます。そこが「鳳林山長興寺(曹洞宗)」です。志筑藩藩主本堂公の菩提寺で,出羽国(現在の秋田県)の瑞雲院の末寺となっています。創建は1602(慶長7)年。奥州・本堂から国替となった本堂氏が,奥州・本堂から竜山和尚を招いて開山しました。本堂と山門がかすみがうら市指定文化財となっていて,本堂氏の菩提寺として保護されてきました。山門の屋根には本堂家家紋の笹竜胆を見ることができます。境内には五百羅漢といわれる多くの石仏を見ることができます。色彩あるものやユニークなお顔をした石仏ばかり。一見の価値あり。
 山門と本堂
   
   
   
 本堂家の家紋 本堂家先祖代々之墓 本堂家奥方の墓

※次回は「師付の田井」です。

22:00 | 史跡
2012/08/25

雲集寺

| by:志筑小
 
山門
山門前にある戒壇石です。上部には如意輪観音をいただき,『不許葷酒入山門』と刻まれています。
 戒壇石
戒壇石

 釣鐘堂
鐘楼

 全景 お堂内部
 いりまめ地蔵
 雲集寺(曹洞宗)は,天平勝宝4年(752年)雪入村瑞龍ヶ峰に近隣の観音信仰者が同舎を創建したことに始まるとされています。十一面観世音菩薩を安置し,天智四品大僧正を招聘して,山号を瑞龍山雲集寺と開号したと伝えられています。
 江戸時代になり,現在地に移ったと言われています。境内には「いりまめ地蔵」という子どもの歯に霊験ある石造地蔵立像(画像下段一番右)があります。もとは近くの養福寺にあったものですが,廃寺となったことからここに移されたそうです。土地の人は歯痛を除いてくれる地蔵さまとして信仰され,焙烙で煎った豆をこの地蔵さんの前に埋めて,いり豆の芽が出るまでは歯が痛くならないようにと祈ったと伝えられています。
※次回は「長興寺」です。

22:00 | 史跡
2012/08/24

志筑陣屋の玄関

| by:志筑小
陣屋玄関全景鬼瓦(笹竜胆ささりんどう)
 志筑陣屋の玄関は,現在中志筑地区の個人宅内に残されています。元々は旧志筑小学校の地にあったものです。秋田からこの地に移封となった本堂茂親が志筑藩の領主となり,正保2年(1645年)ここに陣屋を構えて廃藩置県まで本堂氏12代の居城となっていました。明治維新となり廃藩置県があり,志筑県となりましたが,その後,新治県へ統合となり,志筑県はなくなり役所として使用していた陣屋も解体されることになったとのことです。その時,地元の有力者たちが,門や玄関,中には部屋を譲り受け,移築したとのことです。玄関屋根の鬼瓦に本堂家の家紋である笹竜胆(ささりんどう)を見ることができます。
【志筑城・志筑陣屋について】
 志筑城は藤原秀郷流太田氏の一族で下総下河辺荘を本拠地としていた下河辺氏の祖・行義の子・政義が築いたと言われています。政義は益戸氏とも称して兄の行平と共に源頼朝に仕えて戦功を挙げました。その後,子孫は益戸氏を継承して代々志筑城主となったそうです。その後,南北朝の争乱時,時の城主・益戸国行は南朝方に味方して勢力を増していきましたが,暦応四年(興国二年,1341年)6月,足利尊氏の命を受けた高師冬が小田城を攻めた際に志筑城も攻撃を受けた。国行は北朝方の大掾氏らと数度に渡って戦ったが,小田治久が降伏するとついに落城の憂き目にあって下総の小山氏を頼って落ち延びました。慶長六年(1601年)本堂茂親がこの地に配せられて陣屋を置いたとされます。
【本堂氏について】
 本堂氏は先祖を源頼朝の落胤とし,秋田県南部を本拠としていました。天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻撃した時,本堂忠親が参陣し,その軍功により秀吉から大名の地位を認められ「領知朱印状」を与えられました。その当時は五万五千石以上あったそうですが,豊臣政権下では領土は守られましたが大きく減封されたといわれています。慶長六年(1601年),本堂忠親の子茂親の代に,徳川家康より国替えを命じられ(佐竹氏が出羽に国替えとなったため)志筑地方八千五百石(後に分知により八千石)の領主となりました。第十代・親久の時の1868年,新政府に忠誠を誓って一万百十石に加増され,大名に昇格しました。版籍奉還で志筑藩知事,廃藩置県で志筑県知事を拝命しました。1884年には男爵となりました。志筑小学校の校章は本堂家の家紋である笹竜胆(ささりんどう)を使用しています。
※次回は「雲集寺」です。

22:00 | 建物
2012/08/23

木造千手観音立像

| by:志筑小
 千手観音(前) 千手観音(後) 案内板
 左側からの観音様頭部 正面のお顔 右側からの観音様頭部
 本尊の十一面千手観音立像は県指定重要文化財(昭和38年指定)になっています。高さ189cm,台座43cmで鎌倉時代の制作とされています。
 この像は,檜の木造金箔塗りの立像であり,部材を合わせて造る寄木造り,眼は水晶を裏側からはめ込む玉眼嵌入という技法で作られています。頭上に十一面をいただき,正面に菩薩面,向かって左側に怒っている面,右側に泣き顔の面,裏に大笑いの面があるとのことです。
 千手というので千本の手(腕)があるのか,数えてみると42本でした。そこで42本の腕の意味について調べてみると,胸の前で合掌する2本の腕を除いた40本の腕が,それぞれ25の世界を救うものであり,「25×40=1,000」であると説明されています。ここで言う「25の世界」とは,仏教で言う「三界二十五有(さんがいにじゅうごう)」のことで,天上界から地獄まで25の世界があるという考えです。俗に言う「有頂天」とは二十五の有の頂点にある天上界のことを指しています。
※千手観音のほとんどは42本の腕の像が多いのですが,奈良県唐招提寺の千手観音像は千本の腕があるとのことです。
※次回は「志筑陣屋の玄関」です。

22:00 | 文化財
2012/08/22

千手観音堂

| by:志筑小
 案内板 朝日山慈顔院千手寺
 観音堂彫刻 観音堂内部
 須賀神社から宿通りを挟んで向かい側に「千手観音堂」があります。正式には「朝日山慈眼院千手寺」といい,真言宗の寺院です。昭和46年にかすみがうら市指定文化財になっています。
 千手観音堂は元禄15年(1702年)に建てられ,大きさは三間四方で,入母屋造り。瓦棒葺き(金属板を用いて屋根を葺くときの方法の一つ),一間向拝の建物です。欄間から上部が朱色に塗られ細部に施された精巧な彫刻は白色に塗られ対比させてあります。本尊である十一面千手観音立像(昭和38年茨城県指定重要文化財に指定)は鎌倉時代に制作されたと推定される像で像高189cm,台座43cm,現在は保護保存の為,隣接しているコンクリートの収蔵庫に安置されています。
※次回は「十一面千手観音立像」です。

22:00 | 史跡
12
茨城県かすみがうら市立 志筑小学校
〒315-0075 茨城県かすみがうら市中志筑2112番地
TEL:0299-37-7071 FAX:0299-37-7030